株式会社ベースミーCEO・勝見による「Kimmy’s Interview」。
今回のゲストは、勝見が「この場にいる奇跡をつくってくれた人」と語る、船橋力さんだ。
幼い頃に経験したアルゼンチンでの孤独、過酷な環境で生き抜くために身につけた社交性、失恋で突きつけられた“自分の空虚さ”、そして商社での葛藤——。
どこにでもいるような青年が、起業し、やがて1万人を超える若者を海外に送り出す構想を生み出すまでには、静かで長い時間が流れている。彼はどうやって“軸のない自分”を手放し、“軸で生きる人”へと変わっていったのか。
その変化のストーリーを、たどっていく。

船橋力 さん
新卒で伊藤忠商事に入社し、海外インフラ案件に従事。
同社を退職後、教育事業を行う株式会社ウィル・シードを創業。
その後、文部科学省の官民協働プロジェクト「トビタテ!留学JAPAN」のプロジェクトディレクターを務め、現在はさとのば大学理事も務める。
1. 幼少期:二重のマイノリティ経験が育んだ、独自の処世術
船橋さんが幼少期を過ごしたのは、南米アルゼンチンだった。親の転勤で突然向かうことになったその土地には、アジア人がほとんどいない。幼い彼にとって、強烈なマイノリティ経験になった。
「向こうでは、すごく差別や偏見を受けた感覚があります。ほとんどアジア人がいない環境で、完全に“マイノリティ”として過ごしていました。そして日本に帰ってくると、今度は“帰国子女”という別のマイノリティになる。今度は“変な日本人”のような扱いを受けるようになってしまって。」
そんな厳しい環境の中で、船橋少年は “外の世界で生き延びる術 “を自分で編み出していく。
「アルゼンチン人ばかりの現地の幼稚園に、いきなり放り込まれたんです。そこで“生き延びるための社交性”が身につきました。コミュニケーションを取ることも、キーパーソンを見つけることも、全部サバイブするために覚えていった感覚です。」
船橋さんにとっての社交性は、天性の才能ではなく、生き延びるために必要なスキルだった。
そこに、宗教というもう一つの“マイノリティ”が重なる。カトリック家庭で育った彼は、毎週末、1人で教会へ通っていたという。
「野球少年だったんですけど、親が厳しくて、週末の練習の前に必ず一人で教会に行かなくちゃいけない。そこでも『自分だけ人と違うな』というのをすごく感じて。」
出自によるマイノリティと、宗教によるマイノリティ。二重のマイノリティ経験をするなかで、彼は“周囲の空気”に敏感になり、場に合わせて振る舞いを変えることを覚えていく。
2. 大学時代:全てを変えた、大学4年での失恋
上智大学に進学した船橋さんは、体育会アメリカンフットボール部で副将を務めた。100人規模の組織を束ね、練習も試合も全力で取り組んだ。外から見れば順調に見えた大学生活だが、船橋さんの心にはモヤモヤが残っていた。
「何に対しても納得できないまま、要領よく自分に嘘をつきながら、ただ流されるように生きていました。たとえば、自分がカトリックであることにしっくり来ていなかったので、その事実を隠していたんです。でも、当時付き合っていた彼女はカトリックだったので、そのときだけ“自分もそうだ”と取り繕って近づこうとしていた。そうやって、自分に嘘をつき続ける生き方をしていました。」
そんな船橋さんが大きく変わる出来事があったのが、大学4年の9月4日。
翌日に慶應との体育会初戦を控えた夜、突然、交際していた彼女から別れを告げられる。そのときの言葉が、彼の心に突き刺さる。
「初戦の前日の夜にいきなり振られるわけね。『力君、あなたは人として優しいけど、男として魅力がない』と。この言葉がすごい刺さって、『図星』って思った。男として魅力がないっていうのを僕がどう捉えたかっていうと、軸がないと。納得してないで、なんとなく都合よく生きて、生き延びているだけと。」
「このままではいけない」
その思いが、彼の生き方を大きく変える。
「ここで自分を変えないとまた同じように苦しい思いを繰り返す。『この先の人生、本当にまずいな』と感じたんです。体育会が一番ハードな時期にもかかわらず、そこからの3ヶ月は毎日睡眠3時間で必死に“自分探し”をしていました。哲学や倫理学、宗教、さらには“結婚”や“愛”とは何かといった本まで読みあさって、とにかく自分の軸をつくろうとしていた時期です。」
それでも足りないと感じた彼は、卒業旅行を兼ねて世界一周に出る。フランス、アフリカ、アジア—そして最後に訪れたフィリピンで、将来を左右する出来事が訪れる。
「マニラとセブにツアーで1週間ずつ滞在したんです。原住民の村や貧困層、大金持ちなど、いろんな世界の側面を見なさいという内容のもので。その中で孤児院を訪れたとき、孤児の一人と目が合っちゃったんですよ、バチバチっと。すごく寂しそうな目をしていて。その瞬間、その目が自分もずっと抱えていた孤独感と重なったんです。小さい頃から、ずっと居場所がないと思っていたから。 『この子たちを救うことが、自分を救うことなんだ』—そんな思いが自然と湧き上がってきて。自分が向き合うべきものは“貧困”なのだとそこで感じました。」
“揺れるだけだった青年”に、初めて揺るがない芯が生まれた。
そして運命のように、彼が入社した伊藤忠商事での最初の仕事は、フィリピン・セブ島の空港建設だった。
「伊藤忠で最初の仕事がフィリピンのセブ島の空港建設で。彼女の失恋がなかったら、何となく都合のいい、調子のいい男で終わってたはずです。」
3. 商社時代:小さな違和感と、異業種交流会の立ち上げ
伊藤忠商事に入社した船橋さんは、インフラプロジェクト部に配属された。
「主に東南アジアの地域で、水道や地下鉄、セメント工場などのインフラ事業を、ODA*1やプロジェクトファイナンスを使って進めていました。一番しっかり関わったのは、ジャカルタに初めて地下鉄を通すプロジェクトのメンバーに抜擢された仕事でしたね。」
社会を動かすスケールの大きさにやりがいを感じながらも、船橋さんはどこかで違和感を感じていた。
「今は状況が違うかもしれないし、こちらの誤解もあるとは思います。でも、本来“途上国開発”は貧困をなくすためにあるはずなんですよね。ところが実際はインフラ事業としてのビジネス色が強く、貧困解消への思いがそこまで強く打ち出せない自分がもいた。そうした話題を持ち出しても、『そんなことより仕事をしろ』と言われてしまうことが多くて、悩みました。」
大学時代の失恋をきっかけに、必死に自分探しをして得た軸。——貧困をなくしたい。
しかし、目の前の仕事はそこに直結しない。そのギャップは焦りに変わっていく。
「生き急いでたんですよね。彼女に振られた経験があって、早く“貧困を無くした”“世の中を変えた”と言える何かをしなきゃいけないと思ってた。でも、なかなかそこには届かない。その焦りがずっとありました。」
そんな中、彼は動いた。社会人2年目の秋、伊藤忠商事に在籍しながら異業種交流会を立ち上げた。
「社外の友達をガーッと、コアメンバー100名で延べ3000人くらい集めたんです。そこで社会課題を考えるとか、途上国について知るとか、そんなネットワークを作り始めたのが2年目の12月ぐらい。あの頃は365日24時間、何かしら考えたり動いたりしていましたね。」
彼の問題意識は、はっきりしていた。
「同世代でエネルギーがある連中って、体育会出身で、銀行とか商社に行く人が多い。エネルギーのある彼らが、本気で社会課題について考えるようになれば社会は良くなるんじゃないか。そう思ったとき、“社会問題に目を向けさせる教育ツール”として交流会をやったんです。」
そこで彼が編み出した手法は、独創的だった。社会の不平等や格差をテーマにした“南北問題”のワークショップを、まるでビジネスゲームのように見立ててアレンジしたのだ。
「“南北問題のゲーム”なんて言うと絶対つまらなそうに聞こえるので、関心がない人には『めちゃくちゃ面白いビジネスゲームですよ』と誘っていました。一方で、真面目に学びたい人には『南北問題を扱います』と伝えて呼ぶ。同じゲームに両方のタイプを混ぜて参加してもらい、楽しみながら学べる場をつくっていたんです。」
このネットワークが、後の起業を支える基盤になった。
※1 ODA(政府開発援助:Official Development Assistance):先進国の政府が、開発途上国の経済・社会の発展や自立を支援するために行う国際協力。資金協力や技術協力などが含まれる。
4. 起業:「力くん、そんなに教育ビジネスをやりたいなら、起業しなさい」
伊藤忠商事で充実した日々を送っていた船橋さんだが、3年目に大きな転機が訪れる。インドネシアから帰国した彼を待っていたのは、アジア経済危機だった。
「1998年にアジアの経済危機があり、当時、伊藤忠の株価は100円台まで落ちて潰れかけるほどでした。そんな危機的状況を目の当たりにしたとき、日本を学校教育という根本の部分から変える必要があると感じたんです。」
そんな危機意識から教育ビジネスに興味を持ち始めた船橋さんだったが、当時は、起業など考えもしなかったという。
「最初、起業は全く考えていませんでした。カトリックの価値観もあって、『起業=金儲け=悪』というイメージが自分の中にあったんです。でも、本当は起業って“世の中の何かを実現するための手段”にすぎない。金儲けそのものが目的じゃないんだ——徐々に、そう思えるようになっていきました。」
そんな船橋さんの背中を最後に押したのは、 リクルート創業者・江副浩正氏の奥様だった。
「『教育ビジネスで学校教育を変えたい』と伊藤忠社内で話しても、『儲からないからダメだ』と取り合ってもらえなかったんです。どうしようかと悩んでいたとき、大学と伊藤忠の同期で、リクルート創業者の江副さんの奥さまが留学事業をやっていると聞いたので相談に行ったんです。そこで彼女から言われたんです。『力くん、そんなに教育ビジネスをやりたいなら、伊藤忠を辞めて起業しなさい』と。その一言で、“自分でやるしかないんだ”と腹が決まりました。」
その言葉に、船橋さんは強く心を揺さぶられた。
後から知ったリクルートの社訓——
「自ら機会を創り出し、機会によって自らを変えよ」
船橋さんの起業を後押ししたその言葉は、まさにリクルートの精神そのものだった。
こうして彼は起業。教育ベンチャー・ウィル・シードが誕生する。しかし現実は甘くなかった。会社は半年で倒産の危機に陥る。
「実際に学校へ行ってみると、『株式会社は来るな』『金儲けを教えるな』『ゲームで教育をするな』と。いきなり 3つのNO を突きつけられました。事業は思うように進まず、会社も苦戦。貯金を切り崩しながら、なんとか踏ん張っている状態でした。」
そんな中、一つの助言が転機となる。
「ある人から、『異業種交流会でやっていたプログラムを、企業研修として toB で展開すればいいじゃないか』と言われたんです。でも、最初は受け入れられませんでした。私は“学校教育を変えるため”に起業したので、企業向けに振り切ることに抵抗があって。」
当初はtoBビジネスへの転換を躊躇っていた船橋さんだったが、ある出来事がそのスタンスを変えることになる。
「子供達とビジネスゲームをしていた時、『仕事に対してどういうイメージある?』と聞いたんです。そしたら、『全然楽しそうじゃない』と。理由を聞いたら、『家でお父さんがいつも疲れ切っているから』と言われて。その言葉を聞いた時、親から先に意識を変えていくのもありかもと思ったんです。」
こうしてウィル・シードがtoB向けの企業研修事業に舵を切ると、状況は一変した。
「企業研修に一度シフトしたら、翌春にはもう3,000万円の売上が出て、翌年には1億円に到達しました。そこから30社、100社と一気に広がっていったんです。」
toB事業で成功を収めたウィル・シードは、勢いそのままに、念願の学校教育に進出することになる。
「今は衆議院議員で、かつて経産省にいた鈴木英敬さんが、私の新聞記事を読んでくれたんです。そして、『これ、子どもの教育に応用できませんか』 と声をかけてくれた。学校教育はまさに自分が取り組みたい領域。その言葉をきっかけに、経産省内でプログラムを広げてもらい、結果として全国60自治体ほどに一気に広がっていきました。」
長年の目標を達成した船橋さんだったが、その反動で燃え尽き症候群に陥る。
「どこか達成感を感じてしまい、少し燃え尽きたようになりました。社員から『船橋さん、次のビジョンは何ですか?』と聞かれても、綺麗事でしか答えられない自分がいたんです。」
そんな彼だったが、次の転機は思いのほか早く訪れることになる。
5. ダボス会議:ウィルシードの売却を決意させた出来事
2009年、船橋さんは、当時の大阪府知事だった橋下徹氏、ミスチルの桜井和寿氏、サッカーの中田英寿氏などと並ぶ日本代表の一人として、ダボス会議のヤング・グローバル・リーダーズに選出された。だが、彼がそこで感じたのは、限界だった。個人としても、国としても。
「ダボスで日本のプレゼンスが全く無いことに衝撃を受けたんです。個人としても、同世代の世界的リーダーたちと向き合うと、語学も教養もディベート力も情報量も全然足りなくて、まったく付いていけない。完全に打ちひしがれました。でも同時に、彼らひとりひとりが本当に魅力的で、そこにワクワクする感覚もあったんです。」
その体験を通じて、船橋さんの視野は大きく広がった。
「まず何よりも、“日本を早くグローバル化させなきゃ、世界から取り残される”という危機感が強く芽生えました。世界の広さを実際に感じたことで、自分のフィールドが一気に広がった感覚もあって。そうなると、会社の売上をどう伸ばすかとか、日本の教育をどう変えるかといった“国内だけの話”ではなく、もっと大きなことに取り組まなきゃいけないと感じるようになったんです。」
その後、船橋さんは、ウィル・シードを売却することになる。。
6. トビタテ!留学JAPAN立ち上げ:芯のある行動が国を動かす
ウィル・シードの売却後、船橋さんは次のアクションを決めかねていた。
「売却後に自分が次に何をやるべきか考えたとき、頭に浮かんだキーワードは3つでした。『グローバル』『イノベーティブ』『ソーシャルインパクト』。この3つを軸に何かやりたいと思い、いろいろ探したり考えたりしたんですが、どれもしっくり来ない。まだ“これだ”というものには出会えていませんでした。」
そんな時、運命的な出会いがあった。
「そんなある時、当時の文部科学大臣・下村博文さんとの日本のヤンググローバルリーダーズでの会食の機会がありました。そこで、我々はダボスで受けた衝撃について話したんです。 『40歳になってから世界の現実を知ってショックを受けても遅い。18〜20歳のうちに、全員が一度は海外に出るくらいのことを国としてやるべきじゃないか』と提案したところ、大臣がその話に強く乗ってきてくれて。」
船橋さんは続ける。
「もし本当にやるなら、おこがましいとは思いつつ、政府だけで進めても失敗するだろうと感じていました。そして、産官学が連携する“オールジャパン”で取り組むべきではないかと提案したんです。すると大臣も『その通りだ』と。さらに、税金を使わない方がいいという話にもなりました。寄付で資金を集めた方が柔軟に動けるし、税金を使う場合はどうしても成績や英語力のような“数値化できる基準”にしか投資しない限り国民からも不満が出やすい。でも、人間の可能性は数値化できるものだけで測れるわけじゃないだろうと。」
そこから、トビタテ!留学JAPANの構想が動き出した。
「それが2014年の4月のことでした。『オリンピックイヤーの2020年までに、とりあえず1万人を海外に送り出そう』という話になって。1人あたり200万円ほどかかるから、必要な資金はざっと200億円。それを寄付で集めよう——そんな構想で一気に盛り上がったんです。そして翌月から本格的な議論が始まり、結局、その翌年の春には、プロジェクトがスタートしていました。」
寄付の資金集めは、容易ではなかったという。
「200億を集めるのは簡単じゃなかった。どの大企業に行っても、『あの会社が決めたらうちも決めます』みたいな話で、誰も最初に決めないわけです。資金集めに苦戦していたある日、ソフトバンクの孫さんに寄付をお願いしたら、孫さんが『自分はお金で苦労したけど、同じ理由で留学できない人がいるのは嫌だ』と言って、『寄付します』と言ってくれた。下村大臣が『孫さん個人としてですか? 会社としてですか?』と聞くと、孫さんが『両方です』と。『最初に10億寄付します』と言われて、『どっちの10億ですか?』と確認したら、また『両方です』と。そこで一気に20億が決まったんです。」
そうした協力もあり、最終的には200億円を超える寄付を集めることに成功した。
「トビタテ!留学JAPAN」はこれまでに1万人以上の学生を海外へ送り出し、今もなお、多くの若者の挑戦を後押しし続けている。
7. 読者へのメッセージ:刺激に身を置け——コンフォートゾーンを出続ける哲学
彼は「成長するための仕組み作り」を大事にしてきた。
「伊藤忠で若手だった頃は、年に2回は必ず1人で海外に行って内省する時間をつくっていました。行ったことのない国へ行くとか、リゾートで本を読み続けるとか、とにかく“初心に立ち返る時間”を仕組みとして意図的につくっていたんです。」
船橋さんは続ける。
「今もトビタテ生に言っていることですが、自分で“仕組み”をつくることが大事。たとえば勉強会を主催すると、責任を持ってやらざるを得ないし、自分が学びたいテーマで設計できる。僕の場合、特に良かったのがヤンググローバルリーダーの勉強会。訳の分からないくらい多様な人が集まっていて、毎月の近況報告だけでも『会社を売却しました』『転職しました』『新しい家をつくりました』みたいに刺激しかない。自分を刺激する環境を“自分の手で”つくり、その中心に身を置くことが大事ですね。」
そして、次世代を担う若者に向けて、彼は力強く語る。
「根本的には、僕のマイノリティ体験から来ていると思うんですが、僕の信念は “人は一人ひとり、細胞レベルから違う” ということなんです。全員が個性も違うし、周りに合わせる必要なんてない。“あなたらしい生き方をすればいい” と本気で思っています。だからこそ、トビタテでも“情熱・独自性・好奇心”のような多様性を重んじる価値観を大切にしています。そして当然ながら、そうなると大事なのは「自分にどう正直に生きるか」「自分をどう知るか」という問いです。ただ、自分を知るためには、結局いろんな人と出会って、いろんな刺激に揉まれないと気づけない。だからこそ、多様な環境に飛び込み、刺激を受け続けることが大切なんです。」
かつては軸を持てず、環境や他人の評価に揺れ続けていた船橋さん。
しかし、自ら刺激を求め、コンフォートゾーンを越え続ける道を選んだことで、揺れるだけだった人生に“自分の軸”を育ててきた。
その軸は今も進化し続け、次の挑戦へと彼を導いている。
8. 筆者の感想
起業家はしばしば、生まれつき突出した才能を持つ特異な存在として語られる。しかし船橋さんは、元々は引っ込み思案で、失恋をきっかけに自分を変え始めた。彼が選んだ成長のための手段は、慣れた環境から飛び出し、自ら新しい場を「主催する」ことだった。
「主催する=イニシアティブを取る」という行為には責任が伴う。だからこそ、逃げ道のない状況が生まれ、行動せざるを得ない。その“強制的な負荷”が人を成長させる。
さらには、慣れ親しんだ環境を飛び出し、未知の人々が集まる環境に身を置くことで、自分とは何者なのかが相対的に見え始める。自分の強みや、自分のやりたいが分かるきっかけになるのだ。
つまるところ、成長の本質は コンフォートゾーンを出て、自ら新たな環境を創り出し、挑戦することにあるのだろう。